構想三ヶ月!北陸での城めぐり「春日山城」で出合った旅人に「旅の基本は歩き」ということを思い知らされ、思いついたのが「東海道53次の旅」。
昨年5月の連休に横浜の自宅から小田原までを何日かに分けて歩いた経験から、旅立ちの最初は小田原からと決めた次第であります。
ところが最初の行程が難関の「箱根の山越え」ということで基礎体力の訓練と事前情報の習得の準備に時間がかかりましたが、万全の状態で本番の日を迎えることができました。
ということで、横浜の自宅を朝8時に出発。9時にいよいよ小田原駅に降り立ちました。

東海道へは駅から小田原城のお堀端を歩きますが、今回はお城よりも「旧東海道を歩く」がメインとなります。

東海道に入るとお城のような建物が見えてきますが、これは薬と菓子で有名な「ういろう」のお店であります。

JRの東海道線をくぐり、少し行った新幹線の高架下あたりから旧道へ入って行きます。

風祭あたりですが旧東海道という雰囲気が出てきています。

小田原から2時間ほど歩くと箱根湯本の「三枚橋」に到着です。
川の右手の方には小田急の箱根湯本駅が見えています。

箱根山中では、どこで食事が取れるか分からないので、少し早いですが湯本で腹ごしらえをします。
三枚橋からではなく、湯本からでは「あじさい橋」を渡り旧道の方へ向います。

湯本から旧道へは一山越さなければならなかったようです。
越したところが丁度寄ろうと思っていた「早雲寺」でありました。
北条氏五代の墓が奥まったところにありました。中央が北条早雲のものです。

車も通る旧道を少し行くと右手に最初の石畳へ分岐します。
こんな道が僅か200mほど続いて、再びアスファルトの旧道へ戻ります。

歩道もない車道を後ろから来る車に注意しながら30分ほど歩きます。
左手に「鎮雲禅寺」という石碑が見えてきました。これが目印です。

上の写真のところから100mも行くと、「須雲川自然探勝歩道」の入口となります。
「女転坂(おんなころしさか)」という意味ありげな石碑が見えます。
「人が注意するのを聞かずに馬に乗ったまま坂を登って行った女が転げて死んだ」という言い伝えがあるそうです。
なんまいだ~。

須雲川のほとりを歩きますが、向こう側へ渡るにはこんな橋を渡らなければなりません。
旅人は私一人だけですから誰も助けてくれません!注意深く足を滑らさないように慎重に渡ります。おーコワ。

さらに行くとこんな坂の名前が「割石坂」と。
曽我兄弟の仇討で有名な曽我五郎が石を試し切りしたとのこと。
箱根はいろいろと歴史的な事跡が多いのですね。

これから先、こんな石畳が延々と続きます。
石にコケが生えていて、度々足が滑ります。何度もこけそうになったり足を挫きそうになります。
でも石があるから歩けるのですね。
無かったら、関東ローム層ですから粘っこくぬかるんで泥だらけになって進めなくなります。
最初は竹を敷いたりしたそうですが、メンテナンスに費用がかかり過ぎて石畳にしたそうです。
現代人は「こんな歩きにくいもの」と思うかもしれませんが、江戸時代の人の知恵ですね。

やっと畑宿に着きました。湯本から2時間かかりました。
小田原と箱根の中間に作った間宿だそうです。まだまだあの山を登らなくてはいけません。

ここまではそれほど疲れてはいません。水で喉を潤しトイレ休憩して出発です。

畑宿を出た直後に江戸より23里の「一里塚」があります。
これは左手の一里塚ですが右手にもありました。両方対になっているのが本当の一里塚です。
ここで今日初めて旧道を歩いている同じくらいの年齢の夫婦連れに遭遇。
写真を撮っていたので、「二人で撮ってあげましょう。」と声をかける。
「箱根はここからが難所です。頑張っていきましょう。」とエールを送って先に出かけました。

いろいろとガイドブックやネットで調べたとおり、ここからが本当に難所でした。
これは「樫木坂」の始まり、こんな階段が「まだかいな!」と思うほど続きます。
汗でタオルがズシリと重くなりました。
階段が無かったら、ギブアップしそうな坂ですね。大名行列はどうやって登ったのでしょうか?

面白い名前がついていますね「猿滑坂(さるすべりざか)」。
この上に「見晴らし茶屋」があり、小田原や相模湾がかすかに見えました。

そしてこれが「追込坂」。これを登り切ると箱根一の難所をクリアです。

さあ、休憩所の「甘酒茶屋」に到着しました。
畑宿から1時間。午後の3時になって陽が傾き始めています。
甘酒は苦手なので、名物の力餅とお茶で休息をとります。
気温が下がってきていてあまり汗をかいていません。

甘酒茶屋で30分ほど休んで出発しようとしたら、畑宿で出会った夫婦連れと鉢合わせ。
「やっぱりあれからが難所でしたね。」「これから芦ノ湖です。お達者で!」と別れました。
そして再び石畳の道ですが、だんだん下ってきましたね。

石畳とともに今度は「杉並木」になりました。もう芦ノ湖は間近です。

16:30に芦ノ湖に到着!小田原から7時間かかりました。
今宵の宿はお一人様でもOKの芦ノ湖近くのペンションを予約してます。

すでに夕闇が迫る車道をトボトボと歩いて、なんとか宿にたどり着いたのでありました。
歩いた距離21km、35000歩と相成りました。1日目終了!
昨年5月の連休に横浜の自宅から小田原までを何日かに分けて歩いた経験から、旅立ちの最初は小田原からと決めた次第であります。
ところが最初の行程が難関の「箱根の山越え」ということで基礎体力の訓練と事前情報の習得の準備に時間がかかりましたが、万全の状態で本番の日を迎えることができました。
ということで、横浜の自宅を朝8時に出発。9時にいよいよ小田原駅に降り立ちました。

東海道へは駅から小田原城のお堀端を歩きますが、今回はお城よりも「旧東海道を歩く」がメインとなります。

東海道に入るとお城のような建物が見えてきますが、これは薬と菓子で有名な「ういろう」のお店であります。

JRの東海道線をくぐり、少し行った新幹線の高架下あたりから旧道へ入って行きます。

風祭あたりですが旧東海道という雰囲気が出てきています。

小田原から2時間ほど歩くと箱根湯本の「三枚橋」に到着です。
川の右手の方には小田急の箱根湯本駅が見えています。

箱根山中では、どこで食事が取れるか分からないので、少し早いですが湯本で腹ごしらえをします。
三枚橋からではなく、湯本からでは「あじさい橋」を渡り旧道の方へ向います。

湯本から旧道へは一山越さなければならなかったようです。
越したところが丁度寄ろうと思っていた「早雲寺」でありました。
北条氏五代の墓が奥まったところにありました。中央が北条早雲のものです。

車も通る旧道を少し行くと右手に最初の石畳へ分岐します。
こんな道が僅か200mほど続いて、再びアスファルトの旧道へ戻ります。

歩道もない車道を後ろから来る車に注意しながら30分ほど歩きます。
左手に「鎮雲禅寺」という石碑が見えてきました。これが目印です。

上の写真のところから100mも行くと、「須雲川自然探勝歩道」の入口となります。
「女転坂(おんなころしさか)」という意味ありげな石碑が見えます。
「人が注意するのを聞かずに馬に乗ったまま坂を登って行った女が転げて死んだ」という言い伝えがあるそうです。
なんまいだ~。

須雲川のほとりを歩きますが、向こう側へ渡るにはこんな橋を渡らなければなりません。
旅人は私一人だけですから誰も助けてくれません!注意深く足を滑らさないように慎重に渡ります。おーコワ。

さらに行くとこんな坂の名前が「割石坂」と。
曽我兄弟の仇討で有名な曽我五郎が石を試し切りしたとのこと。
箱根はいろいろと歴史的な事跡が多いのですね。

これから先、こんな石畳が延々と続きます。
石にコケが生えていて、度々足が滑ります。何度もこけそうになったり足を挫きそうになります。
でも石があるから歩けるのですね。
無かったら、関東ローム層ですから粘っこくぬかるんで泥だらけになって進めなくなります。
最初は竹を敷いたりしたそうですが、メンテナンスに費用がかかり過ぎて石畳にしたそうです。
現代人は「こんな歩きにくいもの」と思うかもしれませんが、江戸時代の人の知恵ですね。

やっと畑宿に着きました。湯本から2時間かかりました。
小田原と箱根の中間に作った間宿だそうです。まだまだあの山を登らなくてはいけません。

ここまではそれほど疲れてはいません。水で喉を潤しトイレ休憩して出発です。

畑宿を出た直後に江戸より23里の「一里塚」があります。
これは左手の一里塚ですが右手にもありました。両方対になっているのが本当の一里塚です。
ここで今日初めて旧道を歩いている同じくらいの年齢の夫婦連れに遭遇。
写真を撮っていたので、「二人で撮ってあげましょう。」と声をかける。
「箱根はここからが難所です。頑張っていきましょう。」とエールを送って先に出かけました。

いろいろとガイドブックやネットで調べたとおり、ここからが本当に難所でした。
これは「樫木坂」の始まり、こんな階段が「まだかいな!」と思うほど続きます。
汗でタオルがズシリと重くなりました。
階段が無かったら、ギブアップしそうな坂ですね。大名行列はどうやって登ったのでしょうか?

面白い名前がついていますね「猿滑坂(さるすべりざか)」。
この上に「見晴らし茶屋」があり、小田原や相模湾がかすかに見えました。

そしてこれが「追込坂」。これを登り切ると箱根一の難所をクリアです。

さあ、休憩所の「甘酒茶屋」に到着しました。
畑宿から1時間。午後の3時になって陽が傾き始めています。
甘酒は苦手なので、名物の力餅とお茶で休息をとります。
気温が下がってきていてあまり汗をかいていません。

甘酒茶屋で30分ほど休んで出発しようとしたら、畑宿で出会った夫婦連れと鉢合わせ。
「やっぱりあれからが難所でしたね。」「これから芦ノ湖です。お達者で!」と別れました。
そして再び石畳の道ですが、だんだん下ってきましたね。

石畳とともに今度は「杉並木」になりました。もう芦ノ湖は間近です。

16:30に芦ノ湖に到着!小田原から7時間かかりました。
今宵の宿はお一人様でもOKの芦ノ湖近くのペンションを予約してます。

すでに夕闇が迫る車道をトボトボと歩いて、なんとか宿にたどり着いたのでありました。
歩いた距離21km、35000歩と相成りました。1日目終了!
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二本松からその日のうちに向かったのは会津若松駅。
各駅で1時間45分かかりました。東京~白石と同じくらいの時間ですね。

駅舎は翌日に撮影したので明るいですが、到着は夜の7時で駅前のホテルへすぐにチェックイン。
ぐっすりと休み翌朝は早くも城攻めとなりました。
駅から歩くこと30分、会津若松城の「北出丸」が見えてきました。

北出丸に入る枡形の追手門です。なかなか重厚な雰囲気を残しています。

北出丸から本丸へ向う「椿坂」と呼ばれるこの城の表玄関です。
向こう側に天守が見えてきました。

石垣越しに見える天守の姿です。1965年にコンクリート製で復元されました。
表門は右側の方へ行きますが、左側の旧表門から入る方がショートカットできます。

本丸の内側からの天守です。こちら側からが記念写真スポットですね。

天守最上階から見た「干飯櫓(ほしいやぐら)」と「南走長屋」です。いづれも2001年の復元です。
L字型のところが表門であります。

こちらは飯盛山方面、あの山の麓で白虎隊が自刃したのでありましょう。
二本松と同じような戊辰戦争における少年たちの悲劇の場所であります。
ボランティアの方に「さざえ堂」もそこにあると聞いたのですが、今回は時間がなく行けませんでした。残念!

天守から降りてきて表門方向からのショットです。
昨年赤瓦に葺き替えられ、キレイになりました。

今回購入した入場券は天守閣+麟閣(茶室)+御薬園(別邸)で700円とお得なセット券でした。
そこで本丸の南東側にある麟閣という茶室へ向かいます。
豊臣秀吉の時代に会津を治めていた蒲生氏郷が千利休の死後、
子の少庵を匿い後日秀吉に千家の再興を願い出たそうです。
その際に少庵が氏郷のために造った茶室とのこと。

その後、お城から歩いて20分くらいのところにある藩主の別邸「御薬園」を訪れました。
各種薬草を栽培していたので、そういう名前が付いたそうです。

こちらは「御薬園」の中にある茶室。
ここでお殿様はリラックスしたり、あるいは密談などもしたのでしょうか。

午前中で会津を切り上げ、次に向かったのは今回の最終目的地「白河」であります。
各駅で1時間50分、午後2時頃に到着です。

駅のホームから天守が見えました!
地下道を通り、駅の裏側へ回るとすぐに「白河小峰城」の城址公園となります。
今までの経験から、JRの駅と城が隣接しているケースは間違いなく幕末における幕府方です。
明治政府が敵対した側の城内に遠慮会釈なしに鉄道を引いたのでありましょう。

震災で石垣が崩れ、城内に入ることができません。
工事用のフェンスの外から天守を撮影しました。
ここも幕府を憚ってか「三重櫓」と呼ぶそうです。1991年に木造で復元されました。
コンクリートによる復元が多い中、木造の復元は当時珍しかったとのこと。
当日は日曜日でしたが、この有様なので観光客も少なくボランティアの方もヒマそうでした。
ボランティアの方に聞くと、やはりここは二本松と同じ丹羽氏の管轄で戊辰戦争では幕府方(奥羽列藩同盟)に付き激戦地だったそうです。
鉄道の件はやっぱりね。

城内に入れませんので、城の裏側を散策しました。
ボランティアの方が話していた戊辰戦争の供養塔がありました。
この地の人は分け隔てなく両軍の兵士を供養したとのこと。これは薩摩兵の墓ですね。

これ以上は入れませんが、こちらは城の北東側の石垣です。崩れてはいないようです。

グルッと半周して、堀の広い部分へやってくると地元の人がのんびりと釣り糸を垂れていました。
時間が止まっているような世界ですね。

さらに回り込むと、お堀越しに小ぶりな天守が再び見えてきました。
城内に入れるのは何年先になるのでしょうか。

元の位置に戻る手前の南西の石垣です。こちらも大丈夫なようです。
東北地方では珍しい周り全体が石垣のお城ですね。

「白河小峰城」を1周して、今回の東北の旅はオシマイです。
16:19新白河発の新幹線「なすの」で東京へ戻りました。
日曜日の夕方は混むのですね。超満員でしたが、事前に指定券を購入しておいたのでよかった!
帰りの新幹線でエピソードがありました。
超満員なのに指定席の3人掛窓側に座っている私の隣の2席だけが空席なのです。
途中小山駅を過ぎて私より年長の夫婦連れがやって来て「ここ空いてますか?」と
私「どうぞ、ずーっと空いてますから。多分キャンセルされたのではないかな。」
ということで席が埋まりました。(あとで車掌には指定券代を払ってました。)
他の空いてる席では指定だからと拒否され、私の対応に好意をもったらしく奥様が話しかけてきました。
私は全国の城めぐりの話をしましたが、あちらは陶芸家で全国あちこち出向いているらしい。
次週からは東京の銀座で個展を開くから、ぜひ来て欲しいと招待されました。
後日銀座のギャラリーに行ってみたら、大そうな作品群でびっくりしました。
なかなかの芸術家夫婦だったようです。
住所も記載してきたので、いろいろ情報をその後頂き偶然の交際が始まりました。
各駅で1時間45分かかりました。東京~白石と同じくらいの時間ですね。

駅舎は翌日に撮影したので明るいですが、到着は夜の7時で駅前のホテルへすぐにチェックイン。
ぐっすりと休み翌朝は早くも城攻めとなりました。
駅から歩くこと30分、会津若松城の「北出丸」が見えてきました。

北出丸に入る枡形の追手門です。なかなか重厚な雰囲気を残しています。

北出丸から本丸へ向う「椿坂」と呼ばれるこの城の表玄関です。
向こう側に天守が見えてきました。

石垣越しに見える天守の姿です。1965年にコンクリート製で復元されました。
表門は右側の方へ行きますが、左側の旧表門から入る方がショートカットできます。

本丸の内側からの天守です。こちら側からが記念写真スポットですね。

天守最上階から見た「干飯櫓(ほしいやぐら)」と「南走長屋」です。いづれも2001年の復元です。
L字型のところが表門であります。

こちらは飯盛山方面、あの山の麓で白虎隊が自刃したのでありましょう。
二本松と同じような戊辰戦争における少年たちの悲劇の場所であります。
ボランティアの方に「さざえ堂」もそこにあると聞いたのですが、今回は時間がなく行けませんでした。残念!

天守から降りてきて表門方向からのショットです。
昨年赤瓦に葺き替えられ、キレイになりました。

今回購入した入場券は天守閣+麟閣(茶室)+御薬園(別邸)で700円とお得なセット券でした。
そこで本丸の南東側にある麟閣という茶室へ向かいます。
豊臣秀吉の時代に会津を治めていた蒲生氏郷が千利休の死後、
子の少庵を匿い後日秀吉に千家の再興を願い出たそうです。
その際に少庵が氏郷のために造った茶室とのこと。

その後、お城から歩いて20分くらいのところにある藩主の別邸「御薬園」を訪れました。
各種薬草を栽培していたので、そういう名前が付いたそうです。

こちらは「御薬園」の中にある茶室。
ここでお殿様はリラックスしたり、あるいは密談などもしたのでしょうか。

午前中で会津を切り上げ、次に向かったのは今回の最終目的地「白河」であります。
各駅で1時間50分、午後2時頃に到着です。

駅のホームから天守が見えました!
地下道を通り、駅の裏側へ回るとすぐに「白河小峰城」の城址公園となります。
今までの経験から、JRの駅と城が隣接しているケースは間違いなく幕末における幕府方です。
明治政府が敵対した側の城内に遠慮会釈なしに鉄道を引いたのでありましょう。

震災で石垣が崩れ、城内に入ることができません。
工事用のフェンスの外から天守を撮影しました。
ここも幕府を憚ってか「三重櫓」と呼ぶそうです。1991年に木造で復元されました。
コンクリートによる復元が多い中、木造の復元は当時珍しかったとのこと。
当日は日曜日でしたが、この有様なので観光客も少なくボランティアの方もヒマそうでした。
ボランティアの方に聞くと、やはりここは二本松と同じ丹羽氏の管轄で戊辰戦争では幕府方(奥羽列藩同盟)に付き激戦地だったそうです。
鉄道の件はやっぱりね。

城内に入れませんので、城の裏側を散策しました。
ボランティアの方が話していた戊辰戦争の供養塔がありました。
この地の人は分け隔てなく両軍の兵士を供養したとのこと。これは薩摩兵の墓ですね。

これ以上は入れませんが、こちらは城の北東側の石垣です。崩れてはいないようです。

グルッと半周して、堀の広い部分へやってくると地元の人がのんびりと釣り糸を垂れていました。
時間が止まっているような世界ですね。

さらに回り込むと、お堀越しに小ぶりな天守が再び見えてきました。
城内に入れるのは何年先になるのでしょうか。

元の位置に戻る手前の南西の石垣です。こちらも大丈夫なようです。
東北地方では珍しい周り全体が石垣のお城ですね。

「白河小峰城」を1周して、今回の東北の旅はオシマイです。
16:19新白河発の新幹線「なすの」で東京へ戻りました。
日曜日の夕方は混むのですね。超満員でしたが、事前に指定券を購入しておいたのでよかった!
帰りの新幹線でエピソードがありました。
超満員なのに指定席の3人掛窓側に座っている私の隣の2席だけが空席なのです。
途中小山駅を過ぎて私より年長の夫婦連れがやって来て「ここ空いてますか?」と
私「どうぞ、ずーっと空いてますから。多分キャンセルされたのではないかな。」
ということで席が埋まりました。(あとで車掌には指定券代を払ってました。)
他の空いてる席では指定だからと拒否され、私の対応に好意をもったらしく奥様が話しかけてきました。
私は全国の城めぐりの話をしましたが、あちらは陶芸家で全国あちこち出向いているらしい。
次週からは東京の銀座で個展を開くから、ぜひ来て欲しいと招待されました。
後日銀座のギャラリーに行ってみたら、大そうな作品群でびっくりしました。
なかなかの芸術家夫婦だったようです。
住所も記載してきたので、いろいろ情報をその後頂き偶然の交際が始まりました。
米沢からは一旦帰宅し、10月の週末に再度東北を攻めようと向った先は東北新幹線の白石蔵王駅です。
東京から1時間50分かかりました。

30分ほど歩いて到着したのは「白石城」。
熊本の八代城と並ぶ、「一国一城令」の対象外のお城であります。
また伊達政宗の守り役:片倉小十郎(景綱)の居城としても有名ですね。
幕末まで片倉家が変わることなく存続しました。

左手に井戸が見え、正面が大手門ですね。

外側の一の門をくぐると、中には立派な二の門がありました。
どちらも木造で復元されました。

門から本丸に入ると、すぐに天守(幕府を憚って「大櫓」と呼んだそうです。)が見えます。
穴太積みの石垣が見事です。震災によるダメージからつい最近立ち直ったようですね。
こちらも1995年に木造で復元されたものです。

本丸全体はこんな感じで、中央には御殿があったことでしょう。

三の丸に位置する堀川の流れる旧武家屋敷の一帯です。
昔日の面影を残しています。

上級武士の小関家の屋敷跡が観光名所となっています。東北らしい質素なたたずまいです。

さて次ぎは東北本線を南に下り福島を過ぎ、二本松へやって来ました。
二本松の駅前には幕末の悲劇の1つ少年兵の勇壮な姿がありました。

二本松駅から歩くこと25分、二本松城の城門が見えてきました。
箕輪門と付櫓の雄大なつくりです。1982年の復元だそうですが天守はありません。
織田信長の家臣で有名な丹羽長秀の子孫の居城です。(羽柴秀吉の「羽」は丹羽氏から拝借したもの)

この日は土曜日でしたが、やけに人出が多いなと思ったら菊人形展をやってました。
こちらは今年の大河「平清盛」。

こっちは来年の大河「新島八重」。

そして二本松といえばなんと言っても「二本松少年隊」の雄姿です。なんとなくジャニーズ系かな。

この城はとても懐が深くて、菊人形展をやっている広場(二の丸)からさらに丘陵を登ったところに本丸があります。
途中いたるところに滝が流れて、水量のとても豊富な山城です。
これだと水の手を断たれる心配はなさそうですね。

このようにウッドチップの歩道が作られていて、観光客に登りやすい山城となっています。
東北地方のお城は全体的に訪問客に優しい造りをしていると感じます。
行政と民間が観光に力を入れている現れと東北人のもてなしの気持ちですね。

城の裏側まで登って行くと遠くに「安達太良山」が見えます。
この地方のシンボルと言っていい霊峰です。

搦め手側の石垣ですが、登れるのはここまで。
震災の影響で本丸の石垣が崩れ、これ以上進むことは禁止となっています。

搦め手門と櫓跡ですね。中世の山城の雰囲気を残しています。

丘陵地帯が広いのでいろんな道が通っていますが、結局は元の場所へ戻ってきます。
水量が豊富なので池もいくつかあります。
池の向こう側に見えるのは先ほど見た菊人形の展示スペースですね。

この城のシメは会津の白虎隊と同じく戊辰戦争の悲劇である二本松藩の少年兵の姿です。
物悲しい思いを残しながら二本松を後にしました。

東北福島の旅まだまだ続く・・・
東京から1時間50分かかりました。

30分ほど歩いて到着したのは「白石城」。
熊本の八代城と並ぶ、「一国一城令」の対象外のお城であります。
また伊達政宗の守り役:片倉小十郎(景綱)の居城としても有名ですね。
幕末まで片倉家が変わることなく存続しました。

左手に井戸が見え、正面が大手門ですね。

外側の一の門をくぐると、中には立派な二の門がありました。
どちらも木造で復元されました。

門から本丸に入ると、すぐに天守(幕府を憚って「大櫓」と呼んだそうです。)が見えます。
穴太積みの石垣が見事です。震災によるダメージからつい最近立ち直ったようですね。
こちらも1995年に木造で復元されたものです。

本丸全体はこんな感じで、中央には御殿があったことでしょう。

三の丸に位置する堀川の流れる旧武家屋敷の一帯です。
昔日の面影を残しています。

上級武士の小関家の屋敷跡が観光名所となっています。東北らしい質素なたたずまいです。

さて次ぎは東北本線を南に下り福島を過ぎ、二本松へやって来ました。
二本松の駅前には幕末の悲劇の1つ少年兵の勇壮な姿がありました。

二本松駅から歩くこと25分、二本松城の城門が見えてきました。
箕輪門と付櫓の雄大なつくりです。1982年の復元だそうですが天守はありません。
織田信長の家臣で有名な丹羽長秀の子孫の居城です。(羽柴秀吉の「羽」は丹羽氏から拝借したもの)

この日は土曜日でしたが、やけに人出が多いなと思ったら菊人形展をやってました。
こちらは今年の大河「平清盛」。

こっちは来年の大河「新島八重」。

そして二本松といえばなんと言っても「二本松少年隊」の雄姿です。なんとなくジャニーズ系かな。

この城はとても懐が深くて、菊人形展をやっている広場(二の丸)からさらに丘陵を登ったところに本丸があります。
途中いたるところに滝が流れて、水量のとても豊富な山城です。
これだと水の手を断たれる心配はなさそうですね。

このようにウッドチップの歩道が作られていて、観光客に登りやすい山城となっています。
東北地方のお城は全体的に訪問客に優しい造りをしていると感じます。
行政と民間が観光に力を入れている現れと東北人のもてなしの気持ちですね。

城の裏側まで登って行くと遠くに「安達太良山」が見えます。
この地方のシンボルと言っていい霊峰です。

搦め手側の石垣ですが、登れるのはここまで。
震災の影響で本丸の石垣が崩れ、これ以上進むことは禁止となっています。

搦め手門と櫓跡ですね。中世の山城の雰囲気を残しています。

丘陵地帯が広いのでいろんな道が通っていますが、結局は元の場所へ戻ってきます。
水量が豊富なので池もいくつかあります。
池の向こう側に見えるのは先ほど見た菊人形の展示スペースですね。

この城のシメは会津の白虎隊と同じく戊辰戦争の悲劇である二本松藩の少年兵の姿です。
物悲しい思いを残しながら二本松を後にしました。

東北福島の旅まだまだ続く・・・
仙台から山形へと向い、山形駅を降りて今宵の宿へ行こうと駅前のデッキを歩いていたら、
揃いの服装で歩く屈強な男たちの一団と一緒になりました。
何となくいかめしいオーラが漂い、先頭を行く坊主頭の大きい人に見覚えがあります。
元サッカー日本代表の秋田選手、今は監督?
きっと明日にでも山形で試合があるので宿泊場所への移動でしょうね。

昨日泊まった盛岡もそうですが、ホテルの窓から周りを見るとここ山形も周りは山だらけ、まさしく盆地ですね。
一泊して今日も朝早くから城攻めであります。
水掘に囲まれた山形城の石垣が見えてきました。なかなかの規模じゃないですか。

お決まりの枡形虎口を通過します。いい具合に草生しています。

本丸手前の空掘です。
中央に石が集められていますから、想像ですが水掘を埋め立てたのを再度掘り起こしたのではないでしょうか。

本丸へ通じる橋が復元されています。何となく急ごしらえという気がしますね。

本丸へは通行禁止で、急ピッチで復元工事をしているようです。
行政が城跡を博物館や野球場などにしてしまい、今になって失った物の大きさに気付いたのでしょう。
城内の施設の在り方に、お城としてないがしろにしてきたことを感じるものがあります。

本丸右手の二の丸には県立博物館があり、正面には勇壮な最上義光(よしあき)像が天に向ってます。
最上義光は山形では大変なヒーローなのですね。
大河「独眼竜政宗」では今は亡き原田芳雄さんが屈折した最上義光を好演していたので、
山形の人たちは複雑な思いだったことでしょう。

博物館の外側には1991年に復元された「二の丸東大手門」があります。

こちらは大手門の手前にある「大手橋」です。この辺りが昔日の面影を残す場所ですね。

二の丸は水掘で囲まれていますが、橋周りは石垣、その他はほとんど土塁作りです。

二の丸の周りをグルッと北側に行ってみました。ずーっと土塁になってます。

再度、堀を渡り運動場になった城内を歩きながら最後は「西不明門」から退出しました。

歩いてきた内堀の外側が三の丸で囲まれていたわけですから、この山形城は大坂城や姫路城並のとても巨大な城郭だったのですね。
さすがに伊達と東北の覇を競った最上57万石の居城です。
最上氏改易後は数万石の譜代大名が管理しましたが、身に余る巨城に江戸時代を通して持て余したことでしょう。
さて次ぎは45分かけて各駅停車で米沢へ移動。米沢駅に昼前に到着しました。
日曜日なんですが、あまり人がおりませんね。

駅からテクテクと30分くらいかけて米沢城に到着しました。
あまり歩いている人もいない城下を通り、お城の内堀が見えてきました。
のどかに鯉が泳いでます。

内堀を越えて本丸内に入ると、全体が城郭というより「上杉神社」の境内となっています。

今日は休日で「米沢上杉まつり」というお祭りのようです。そうか市民はみんなここに出てきていたのですね。

お城としては見るべきものはないですが、ここは定番「謙信公」ですね。

そしてこれはわりと新しい大河「天地人」からみの「景勝と兼続像」。

3つ目はやっぱり「鷹山公」でシメですかね。

上杉神社にお参りした後、「上杉城史苑」という観光物産店が近くにあり寄ってみました。
ここで買った米沢牛のハンバーグや佃煮、帰って食べたらとても美味しかった。おススメです。
そして、もと来た道を再びテクテクと米沢駅へ戻って行きました。

東北の旅、まだ続く・・・
揃いの服装で歩く屈強な男たちの一団と一緒になりました。
何となくいかめしいオーラが漂い、先頭を行く坊主頭の大きい人に見覚えがあります。
元サッカー日本代表の秋田選手、今は監督?
きっと明日にでも山形で試合があるので宿泊場所への移動でしょうね。

昨日泊まった盛岡もそうですが、ホテルの窓から周りを見るとここ山形も周りは山だらけ、まさしく盆地ですね。
一泊して今日も朝早くから城攻めであります。
水掘に囲まれた山形城の石垣が見えてきました。なかなかの規模じゃないですか。

お決まりの枡形虎口を通過します。いい具合に草生しています。

本丸手前の空掘です。
中央に石が集められていますから、想像ですが水掘を埋め立てたのを再度掘り起こしたのではないでしょうか。

本丸へ通じる橋が復元されています。何となく急ごしらえという気がしますね。

本丸へは通行禁止で、急ピッチで復元工事をしているようです。
行政が城跡を博物館や野球場などにしてしまい、今になって失った物の大きさに気付いたのでしょう。
城内の施設の在り方に、お城としてないがしろにしてきたことを感じるものがあります。

本丸右手の二の丸には県立博物館があり、正面には勇壮な最上義光(よしあき)像が天に向ってます。
最上義光は山形では大変なヒーローなのですね。
大河「独眼竜政宗」では今は亡き原田芳雄さんが屈折した最上義光を好演していたので、
山形の人たちは複雑な思いだったことでしょう。

博物館の外側には1991年に復元された「二の丸東大手門」があります。

こちらは大手門の手前にある「大手橋」です。この辺りが昔日の面影を残す場所ですね。

二の丸は水掘で囲まれていますが、橋周りは石垣、その他はほとんど土塁作りです。

二の丸の周りをグルッと北側に行ってみました。ずーっと土塁になってます。

再度、堀を渡り運動場になった城内を歩きながら最後は「西不明門」から退出しました。

歩いてきた内堀の外側が三の丸で囲まれていたわけですから、この山形城は大坂城や姫路城並のとても巨大な城郭だったのですね。
さすがに伊達と東北の覇を競った最上57万石の居城です。
最上氏改易後は数万石の譜代大名が管理しましたが、身に余る巨城に江戸時代を通して持て余したことでしょう。
さて次ぎは45分かけて各駅停車で米沢へ移動。米沢駅に昼前に到着しました。
日曜日なんですが、あまり人がおりませんね。

駅からテクテクと30分くらいかけて米沢城に到着しました。
あまり歩いている人もいない城下を通り、お城の内堀が見えてきました。
のどかに鯉が泳いでます。

内堀を越えて本丸内に入ると、全体が城郭というより「上杉神社」の境内となっています。

今日は休日で「米沢上杉まつり」というお祭りのようです。そうか市民はみんなここに出てきていたのですね。

お城としては見るべきものはないですが、ここは定番「謙信公」ですね。

そしてこれはわりと新しい大河「天地人」からみの「景勝と兼続像」。

3つ目はやっぱり「鷹山公」でシメですかね。

上杉神社にお参りした後、「上杉城史苑」という観光物産店が近くにあり寄ってみました。
ここで買った米沢牛のハンバーグや佃煮、帰って食べたらとても美味しかった。おススメです。
そして、もと来た道を再びテクテクと米沢駅へ戻って行きました。

東北の旅、まだ続く・・・
今までは横浜から西あるいは南への城攻めが多かったですが、今回は「城めぐり」のひと段落として東北の各城を訪問してみました。
先ずは北から順に盛岡を訪れました。

駅から真っ直ぐ延びる道を繁華街など経由して歩くこと20分、岩手公園下の交差点に着きました。
お城の立派な石垣と大きな木が見えます。かなりの規模の城郭のようです。
南部藩は10万石ですから、石高以上の風格がありますね。

本来は左手が大手門みたいですが、石垣が多そうだったのでなんとなく右側の搦め手の方から登城しました。

石垣を回り込んで行くと、熊本城の「二様の石垣」のようなアングルがありました。
建物は残っていないようですが、この城の石垣は立派です。

三の丸広場から二の丸を見上げると高石垣の壮大さが確認できます。

右側の二の丸から左側の本丸に渡る朱塗りの橋が印象的です。
デザイン的に縄張りのセンスを感じますが、元々は空掘りをまたぐ廊下橋だったそうです。

わりとこじんまりとした本丸です。
中央に台座だけが残っていますが、日露戦争で亡くなった南部ナントカという殿様の子孫の方の銅像だったと書いてありました。
多分太平洋戦争で軍に供出されたのでしょうが、再建はされなかったようです。

そういえば、この城は堀がほとんど残っていませんね。埋め立てられたのでしょう。
三の丸の外側には北上川の水を引き込んだ庭園もあり、これが内堀の一部なのでしょう。

搦め手側から入場したので、正面の大手口へ出て行きます。
形式的な枡形の虎口がありますが、実戦向きではありませんね。
もう少し狭くて高くしないと守りは固められませんから、平時の縄張りと言っていいでしょう。

この巨大な烏帽子岩は築城当時からあり、盛岡城のシンボルとしてまた城内にある櫻山神社の社宝として崇敬されています。

さて盛岡駅から次ぎの目的地である仙台へ向います。朝から行動しているので、まだ10時前です。
新幹線に乗り込もうとしたら、次に来る「はやて」は全車指定席。
あわてて指定席をとりましが、乗り込むとほぼ満席。
秋田方面から連結される「こまち」の方にやっと空席がありました。
今日は土曜日だから上りの新幹線は混んでいるのですね。
お隣に座っていたご婦人も秋田から上京して、東京で娘さんと合流し「SMAP」のコンサートに行くそうです。
私と同じくらいの年齢とお見受けしましたが、ルンルン気分で若やいで見えました。
和やかにお話していたら、いつのまにか仙台に到着です。

仙台駅からは歩こうかなと思いましたが、駅前ターミナルからお城方面のバスが出るところで飛び乗りました。
駅から西に道路を真っ直ぐ行き「博物館前」で下車。
断崖絶壁の下には堀がめぐらされてありました。こちらからは攻め手の進入は不可ですね。

本来は大手道からの登城が本筋なのでしょうが、なんとなく「城めぐり」のカンが働いて博物館の裏道を通ってみました。
すると突然「政宗公」の胸像にぶつかりました。
あとで調べてみたら、戦時中軍に金属供出された「伊達政宗騎馬像」の本物が胸から上だけ残っていたモノとのこと。
見た時に映像や写真で観る「政宗騎馬像」と顔が似ているなと思ったのは、間違ってなかったのね。
ホンモノですから、現在ある騎馬像がこれに似せて造ったのです。

博物館裏の山道を登って行くと通常のアスファルトの道に出てきました。
後でボランティアの方に伺ったら、私が歩いてきた道が築城当時の大手道だったそうです。
山道で歩きにくいので、今の舗装されたところの道が後に整備されたてその後大手道になったとのこと。
山城をいくつか歩いてきたカンは正しかったようです。
こちらは仙台城に残された数少ない石垣。きれいに整形された「切り込みハギ」ですね。

さあ、登り切ると仙台の町並が眼前に広がります。

そして、あの有名な「伊達政宗騎馬像」ですね。

仙台城の遺構はほとんど残っていないので、この騎馬像だけが撮影スポットですね。

現行の大手道を下ってくると、1964年に復元された「大手門脇櫓」があります。

こちらは案内板にあった古写真です。大そう立派な門でしたのにね。
戦前の国宝であった大手門ですが、残念なことに戦災で焼けてしまいました。

同じアングルでの脇櫓です。
大手門はすでになく、右手の二の丸方面は東北大学のキャンパスへ向う道路となっています。

さすが政宗公、仙台城は遺構は残されていませんが戦国の気風が残る難攻不落の巨大な山城でした。
東北の旅つづく・・・
先ずは北から順に盛岡を訪れました。

駅から真っ直ぐ延びる道を繁華街など経由して歩くこと20分、岩手公園下の交差点に着きました。
お城の立派な石垣と大きな木が見えます。かなりの規模の城郭のようです。
南部藩は10万石ですから、石高以上の風格がありますね。

本来は左手が大手門みたいですが、石垣が多そうだったのでなんとなく右側の搦め手の方から登城しました。

石垣を回り込んで行くと、熊本城の「二様の石垣」のようなアングルがありました。
建物は残っていないようですが、この城の石垣は立派です。

三の丸広場から二の丸を見上げると高石垣の壮大さが確認できます。

右側の二の丸から左側の本丸に渡る朱塗りの橋が印象的です。
デザイン的に縄張りのセンスを感じますが、元々は空掘りをまたぐ廊下橋だったそうです。

わりとこじんまりとした本丸です。
中央に台座だけが残っていますが、日露戦争で亡くなった南部ナントカという殿様の子孫の方の銅像だったと書いてありました。
多分太平洋戦争で軍に供出されたのでしょうが、再建はされなかったようです。

そういえば、この城は堀がほとんど残っていませんね。埋め立てられたのでしょう。
三の丸の外側には北上川の水を引き込んだ庭園もあり、これが内堀の一部なのでしょう。

搦め手側から入場したので、正面の大手口へ出て行きます。
形式的な枡形の虎口がありますが、実戦向きではありませんね。
もう少し狭くて高くしないと守りは固められませんから、平時の縄張りと言っていいでしょう。

この巨大な烏帽子岩は築城当時からあり、盛岡城のシンボルとしてまた城内にある櫻山神社の社宝として崇敬されています。

さて盛岡駅から次ぎの目的地である仙台へ向います。朝から行動しているので、まだ10時前です。
新幹線に乗り込もうとしたら、次に来る「はやて」は全車指定席。
あわてて指定席をとりましが、乗り込むとほぼ満席。
秋田方面から連結される「こまち」の方にやっと空席がありました。
今日は土曜日だから上りの新幹線は混んでいるのですね。
お隣に座っていたご婦人も秋田から上京して、東京で娘さんと合流し「SMAP」のコンサートに行くそうです。
私と同じくらいの年齢とお見受けしましたが、ルンルン気分で若やいで見えました。
和やかにお話していたら、いつのまにか仙台に到着です。

仙台駅からは歩こうかなと思いましたが、駅前ターミナルからお城方面のバスが出るところで飛び乗りました。
駅から西に道路を真っ直ぐ行き「博物館前」で下車。
断崖絶壁の下には堀がめぐらされてありました。こちらからは攻め手の進入は不可ですね。

本来は大手道からの登城が本筋なのでしょうが、なんとなく「城めぐり」のカンが働いて博物館の裏道を通ってみました。
すると突然「政宗公」の胸像にぶつかりました。
あとで調べてみたら、戦時中軍に金属供出された「伊達政宗騎馬像」の本物が胸から上だけ残っていたモノとのこと。
見た時に映像や写真で観る「政宗騎馬像」と顔が似ているなと思ったのは、間違ってなかったのね。
ホンモノですから、現在ある騎馬像がこれに似せて造ったのです。

博物館裏の山道を登って行くと通常のアスファルトの道に出てきました。
後でボランティアの方に伺ったら、私が歩いてきた道が築城当時の大手道だったそうです。
山道で歩きにくいので、今の舗装されたところの道が後に整備されたてその後大手道になったとのこと。
山城をいくつか歩いてきたカンは正しかったようです。
こちらは仙台城に残された数少ない石垣。きれいに整形された「切り込みハギ」ですね。

さあ、登り切ると仙台の町並が眼前に広がります。

そして、あの有名な「伊達政宗騎馬像」ですね。

仙台城の遺構はほとんど残っていないので、この騎馬像だけが撮影スポットですね。

現行の大手道を下ってくると、1964年に復元された「大手門脇櫓」があります。

こちらは案内板にあった古写真です。大そう立派な門でしたのにね。
戦前の国宝であった大手門ですが、残念なことに戦災で焼けてしまいました。

同じアングルでの脇櫓です。
大手門はすでになく、右手の二の丸方面は東北大学のキャンパスへ向う道路となっています。

さすが政宗公、仙台城は遺構は残されていませんが戦国の気風が残る難攻不落の巨大な山城でした。
東北の旅つづく・・・